事故で得た教訓をいかし、命を救う緊急医療に取り組む

2018/02/23

福島第一原子力発電所では、前例のない廃炉に向けて、多くの人たちがさまざまな作業に取り組んでいます。そのすべての人たちの健康を守り、思いがけない怪我や病気に対応するのが、発電所構内に設置された救急医療室です。そこで働く社員が、救急医との話も交えながら、自らの思いと発電所の救急医療について語ります。

東京電力ホールディングス株式会社 福島第一廃炉推進カンパニー
福島第一原子力発電所 総務部
救急医療グループ マネージャー

須藤 勇治

1980年入社後、福島第一原子力発電所・運転管理部に運転員として勤務。2010年から約1年間、大塚支社でお客さま対応に携わった後、2011年1月に福島第一原子力発電所に戻り、2ヵ月後に東日本大震災が発生。その後、福島第一原子力発電所の作業管理や汚染水対策などに携わり、2017年7月より現職。

万全な救急医療体制で、患者さんの救助に備える

廃炉作業が進められる福島第一原子力発電所では、毎日6000人以上の人たちが働いています。そのすべてのみなさんの怪我や急病に対応できるよう、発電所の構内には、24時間体制の救急医療室(ER)が設置されています。
救急医療室には、超音波検査装置、AED(自動体外式除細動器)、自動心臓マッサージ器などの救急医療用機器が備えられ、緊急被ばく医療に詳しい救急科専門医、救急救命士、看護師が常駐し、適切な救急医療を提供するための体制が整えられています。

救急対応が必要な患者さんを速やかに搬送できるよう、発電所内には、東京電力が所有する4台の救急車も配備(構内対応2台、構外搬送用2台)されています。
また、昨年の5月には、重篤な患者さんをドクターヘリで搬送するためのヘリポートが完成し、運用が開始されました。それまでは、双葉町郡山海岸まで救急車で搬送してからドクターヘリに乗り継いでいたので、ヘリポートの完成で搬送時間を大幅に短縮することができました。

7年前の事故当時に比べれば、発電所の働く環境は大きく改善され、作業員の方々の怪我や熱中症などのリスクも大幅に低減されました。とはいえ、そのリスクはゼロになったわけではありません。ですから、思いがけない怪我や急病に見舞われたときに、適切な救急医療を提供できるよう万全の体制を整えることが、現在の私の仕事です。そのために、専門の医療チームと協力しながら日々の業務に取り組んでいます。

救急医療室長の山内健嗣先生にうかがいました

私が救急医療グループに配属されたのは昨年の7月です。それまでの勤務歴では、ほとんどの期間を福島第一原子力発電所の運転員として務めていたので、救急医療は全くの専門外であり、今はまだ戸惑うこともしばしばです。そんな私にとって、救急医療室長で医学博士の山内健嗣先生はたいへん頼もしい存在です。そこで今回は、福島第一原子力発電所の救急医療の経緯や実情などについて、山内先生にお話をうかがいたいと思います。

須藤「山内先生、今日は、新任の私に代わって発電所の救急医療についていろいろお話しいただきたいと思いますので、よろしくお願いします。山内先生は、7年前の事故直後から、福島第一原子力発電所の救急医療に携わっているそうですね」

山内「2011年3月の事故直後に、災害時医療派遣チームの一員として福島に入りました。当時は発電所の放射線量も高く、混乱した状態だったので、発電所から離れたJヴィレッジでの対応でしたが、少し落ち着いてきた7月には、発電所の5・6号機のサービス建屋に救急医療施設を開設することができました。でも、そのときはまだ万全な体制ではなく、医療機器が整った現在の救急医療室ができたのは、今から5年前のことです」

須藤「発電所の作業環境がまだ整備されていなかったときには、救急医療を必要とする患者さんも多かったでしょうね」

山内「5年前は、作業するのに全面マスクや防護服が必要な場所が多かったので、夏場には、毎日のように熱中症の患者さんが来て、多いときは月20人ぐらいに対応しました。でも、昨年(2017年)の夏は猛暑だったにもかかわらず、シーズンを通して数人程度でした。怪我については、タンクの上から転落してしまった事故がありましたが、ガレキが散乱していたころに比べれば大きな怪我はほとんどなくなりましたから、私自身も、労働環境の改善が、現場の安全に大きく影響することを実感しています」

須藤「発電所では除染が進み、構内の約95パーセントのエリアでは、簡易マスクと一般の作業服で作業できるようになりましたが、事故のあった原子炉の周辺では、まだ目に見えない放射線との戦いがあります。ですから、放射線や緊急被ばく医療に詳しい山内先生がいてくださることは、作業員さんたちにとってもすごく安心だと思います。しかも、50人以上の医師の方々が交代で対応してくださっている中で、山内先生だけは、週に3日間も救急医療室に来てくださいます。それも、九州の福岡からですよね。いつもはるばる来てくださって、本当にありがとうございます」

山内「私は福岡出身で、もともとは外科医だったのですが、その後救急医になって、福岡や名古屋にも勤務していました。2010年からは、島根大学医学部の准教授として勤務していたのですが、地元に島根原子力発電所があったので、そこではじめて放射線や被ばく医療を学んだのです。その直後に東日本大震災が起こったので、自分はこのために救急医として被ばく医療を学ぶよう導かれたのだと思いました。ですから、今こうして、福島第一原子力発電所の救急医療室にいることを運命のように感じます」

須藤「これまで全く縁のなかった救急医療に携わることになり、山内先生とお会いしたことは、私にとっても運命的なことでした。その運命とご縁を大切にし、事務方として救急医療のさらなる充実に貢献していきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いします」

福島第一原子力発電所 救急医療室長 医学博士 山内健嗣先生

自らの教訓をいかし、発電所の救急医療に貢献したい

東日本大震災が発生した2011年3月11日、私は運転員として、福島第一原子力発電所3号機の中央操作室にいました。午後2時46分、突然大きな揺れが来たときには、その場に立っていられず思わず膝をついてしまいましたが、揺れはすぐに収まりました。その後は訓練どおりに声を出し、指を差して、指差呼称による確認を行って原子炉を安全に緊急停止させることができました。ですから、そのときは、これまで繰り返してきた訓練が役に立ったと思い、安心すると同時に訓練の大切さを実感していました。

津波が襲ったのは、それから約1時間後のことです。目の前の警報ランプがパタパタと消えて、周囲が暗くなっていきました。そのまま電気が回復せず、翌日、1号機が水素爆発を起こしたときは、まだ3号機の中央操作室にいましたが、津波の影響ですべての電源が失われた状態では、運転員としてなす術もなく、とても不安でした。
その後、1号機から照明用の燃料を届けてくれという要請を受けたので、2人の仲間とともに「よし、行くぞ!」と言って外へ出たときには、変わりきった風景を目の当たりにして愕然としたのを覚えています。結局、ガレキに阻まれて途中で引き返したのですが、そのとき受けた被ばく線量は123ミリシーベルトで、現在の法定被ばく限度量を大きく上回ります。でも、私の健康状態に問題はなく、今もとても元気です。
その後、家に帰ることができたのは、地震から10日後のことでした。

当時を振り返ればいろいろな思いがありますが、その思いとともに得た教訓は、安全だという前提条件を土台にせず、徹底的に疑うということです。それには、どんなことに対しても自分自身の常識や思い込みをなくし、まずは根底から、これで大丈夫なのかと疑ってみることが大事です。
残念ながら、廃炉が進められる福島第一原子力発電所では、私が運転員としてその教訓をいかす場はもうありません。その代わり幸運なことに、救急医療という新しい任務で、その教訓をいかす場を得ることができました。
ですから、これからもあらゆるリスクを想定し、これで大丈夫だと満足することなく、最善の救急医療を目指してまいります。そして、自らが経験した事故の教訓を忘れず、前例のない廃炉に挑む仲間たちの健康を守り、命を救うという重要な任務にしっかりと取り組んでいきたいと思います。

ドクターヘリが発着できる、発電所構内のヘリポートで

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    働きやすい環境の整備

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